補陀落山三十三観音(ふだらくさんさんじゅうさんかんのん)[谷地西部・北谷地地区]
弥勒寺公園野球場の南側に西国三十三観音の石仏があります。これらは嘉永元年(一八四八)谷地大町の和田孝四郎氏(八代幸右衛門氏)の発願により建立されたもので、もとは沢畑山の東斜面の補陀落山に西国三十三所、西側の仏生山に四国八十八所霊場を設けたことに由来します。
孝四郎氏は、天保十五年(一八四四)七月から九カ月かけて西国・四国の巡礼を挙行諸方の霊場を巡り、その霊験に感動し「地元で西国や四国の霊場を参詣したと同じような功徳を得られるようにしたい」という一念で、天保十七年(一八四六)再び巡礼に出かけ、それぞれの霊地から御影絵と土砂を持ち帰りました。そして霊場創設の計画を公表すると、たちどころに石仏の寄進者(講中)が集まり、建立した石仏は両山あわせて一八三体あったということです。寄進者は町内外併せて一六三人にものぼり、四国八十八所や西国三十三所霊場の信仰がそれだけ民間に広がっていたことを表しています。
西国三十三観音は、京都、大阪など二府五県に点在、一千年以上の歴史を誇る霊場です。今では飛行機や車を駆使すれば、早くて十日で巡礼可能でしょう。時代は遷っても観音様は、ふるさとの繁栄と町民の生活の安全を見守っていてくれます。