三社宮(谷地城本丸隅)  内楯とか中楯はかつて城の本丸があったことを示す地名ですが、その東北部(鬼門(きもん))を守るために祭られたのが三社宮とされています。

 谷地城は中条氏によって弘治年間(一五五五~八)頃に築かれ、その後、白鳥十郎が引き継ぎ拡張整備を重ね、天正十年(一五八二)頃には内楯の本丸を中心に二重の堀と土塁(どるい)を巡らす堅固な平城(ひらじろ)ができたと考えられています。
 本丸の大きさは「工藤弥次右衛門手控(てびかえ)」に書かれており、東西約一一〇メートル、南北に約二四〇メートルの南北に細長い長方形であったことがわかります。

 三社宮はこの谷地城の名残を示す土塁(現在の高さ二・三メートル、幅二〇メートル)上に鎮座し、境内には樹齢百年ともいわれる大銀杏(いちょう)や谷地城内の庭石とされる赤石(鎌倉石)が残り、昔の面影を今に伝えています。

 それにしても三社宮とはどんな意味でしょうか。熊野三山に由来しているとされていますが、御神体(実は御本尊で)は聖観音・勢至観音・弁財天の三体であると縁起は記しています。

 私は三山信仰と観音信仰が盛んになるにつれて、いつしか三社宮と呼ばれるようになったのではないか。その意味で大正十五年(一九二六)に建てられた標柱の「三社宮観音堂」が、人々の信仰心を最もよく表していると思うのです。三社宮(谷地城本丸隅)