金谷庵 定林寺の二十二世住職であった仙外耕雲和尚が、江戸時代の中頃、紅花資料館の西隣り高台に金谷庵を建立しました。金谷庵の名は付近の地名からつけられたようです。

 定林寺は享保2年(1717)に沢畑杉山から谷地中楯に移築されましたが、金谷庵はその後、村民の念仏道場として一層の信仰を集め、境内に百万遍供養塔や法華千部供養塔などが建つようになりました。

 初め金谷庵を支えたのは、定林寺とその檀徒総代の北口細矢家でしたが、僧雲岫(うんしゅう)がいた安永年間(1772~80)には、田地も寄進され、経済的に豊かになったように思われます。その後は次第に堀米四郎兵衛家との結びつきを深めることになります。

 嘉永5年(1852)10月、堀米家は金谷庵地内を永小作同様、勝手に相用いることができるようになり、その上金10両を請取り、以後金谷庵の修覆一切を堀米家が行なうことを、定林寺に約束しています。そして翌11月には、金谷庵に附属する屋敷を金25両で堀米家に譲渡し、その金を定林寺の再建費用の一部として貯えることにしたのです。

 こうして金谷庵は堀米家の支援のもと、念仏講や地蔵講の場として村民に親しまれ、金谷の晩鐘は沢畑の風物詩の一つに数えられるようになりました。

 雪が消える3月には、再びあの千願経の仏事が巡ってきて、春の喜びの中に世の平安を願う読誦が続くのです。
金谷庵