河北町の名所・旧跡

 この梵鐘は、寛文10年(1670)5月山形銅町で鋳造されたものです。山形銅町で作られて現存するものの中では、県内で最も古いものです。制作者は「大工」として峯田甚四郎・佐藤権四郎の名が刻まれています。  総高103、口径47センチメ...

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 最上川の合流点近くの寒河江川堤防上に、恙虫明神を祀った石堂があります。これは荒砥の毛谷(けだに)大明神の分霊で、厄除けと死亡者の供養のため大正5年(1916)に建てられたものです。世話人として髙橋傅市・後藤三四郎・木村七蔵の名が見えます。...

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 長表道を進み磐田電工の東側の堤防から眺める最上川の風景は、昭和11年に始まる内務省の河川改修工事によって創られたものである。それ以前の最上川はこの辺りで東に向きを変え、対岸のゴルフ場を越えて第二漁協の北から柳堂稲荷・畜産団地・クリーンピア...

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 両所神社は、急勾配の下馬坂を登りきった平地の高台にある。この神社の歴史は古く、用明天皇(586~7)の時代という説があるが、源義家が前9年の役(1051~62)で奥州征討の後、建立されたとも言われる。  祭神は月夜見命と保食神で由...

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 紅花資料館がオープンして21年になります。雛とべに花の里の代表的文化施設です。1830年以降松橋村上組の名主を勤めてきた堀米四郎兵衛家を整理復元したもので、敷地面積が12,203平方メートルあります。  堀米家は、江戸時代のなかば...

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 沢畑集落の南西に小高い丘があり、頂上近くに月山神社がまつられています。その境内(けいだい)周辺で土器片や石器が採集できることは、古くから知られていました。  遺跡としての姿を探るために、昭和29年山形大学の柏倉教授により発掘調査が...

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 大樹を神ながらと畏怖することは、縄文・弥生の太古からの風儀で、いまも人の心にほのかに伝わる、日本人の美観である。  木は何とは限らないが、松や欅、榎などがあり、いちょうは時代が下がってからのようである。  高関熊野神社の大欅や...

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 大町通りの少し北奥に、一向上人ゆかりの時宗金湛山(きんたんざん)長延寺がある。参道に沿って清らかな川が流れ、石門柱を過ぎると老松を笠に地蔵堂が建つなど、その風情は念仏道場にふさわしく心休まる。  長延寺は鎌倉時代の永仁(えいにん)...

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 追分石とは、街道の分かれ道に建てられた石の道標のことで、旅する人びとの道案内の役目を果たしてきました。  時代が流れ、道路拡張等で行方不明になったり、心ない人に持ち去られたりして姿を消した追分石も少なくありませんが、本町内に現在6個(...

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 弥勒寺の北西に「三篋塔」という三基の五輪塔がある。古来、義経の忠臣佐藤継信一族の墓と伝えられてきたが、生活に追われた戦後は荒れ放題になっていた。その荒廃を嘆いた弥勒院の月光祐浄は、寄進20余万円を投じて昭和38年見事に復興した。 ...

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。南を寒河江川、東を最上川で区切られた本町の南東部一帯には古墳時代から奈良・平安時代頃に営まれた集落の跡が多く確認されています。  熊野台遺跡と北側に隣接する馬場遺跡は、その中でも中心的な集落だったようです。県営ほ場整備事業にともな...

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 北口南、ひな市通り沿いに細谷医院があり、その駐車場の一隅に「北口陣屋(代官所)」と題する史跡説明板が立っています。  元和八年(1622)7月に、北口村・工藤小路村・吉田村・大久保村など上谷地郷六カ村は新庄藩領となり、藩主藩領とな...

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 旧両所中公民館の西側、通称「おぶく山」に青麻大権現の碑が建っている。青麻は、夏に薄紅色の花をつける多年草で、正確には苧麻(ちょま)カラムシという植物で、古くから越後上布や小千谷縮(おぢやちぢみ)、奈良晒(さらし)などの衣料の原料として珍重...

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 土慶小路の中ほどに「夜泣き地蔵」という北向きのお堂がある。小児の夜泣きに効くというので、この名がある。 日本では北向きのお堂が珍しいので、祭神は古志王神と考えられている。古志王神は、伊勢系や出雲系の神と全く別系の神で、古代の日本に帰...

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 旧溝延本村内では、ただ一つの追分石があります。道の分岐点に立って旅人に行先を教えてくれます。この石には「右やまでら、左おさなぎ」としっかり刻まれています。  やまでらは、説明を要しませんが、「おさなぎ」とは、東根市神町の現若木(お...

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 春のことぶれする雛市。繁栄を今に伝える北口の市神はもっとも験ある市神だった。  平安時代以降の商工業者の発達は、座や株仲間を組織して独占販売権、非課税権、不入権などの特権を形成しつつ、戦国時代には経済的利益が独占され既得権化していまし...

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 高関は神町・天童方面から谷地への玄関口にあたり、熊野の大欅と茶屋の柳は旅人にとって格好の目印となっていました。  高関という地名は出入口を固める関所を連想させますが、実は熊野神社の東南角を落ち口に堰を掘り、付近の高台一帯を開拓し、村...

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 溝延八幡神社本殿は、棟札によると、寛文7年(1667)6月の建立で、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)といわれる社殿の秀作であるとされます。  桁行一間(けたゆきひとま)(7尺5寸)、梁間一間(6尺)で、正面に向拝(こうはい)...

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 定林寺の二十二世住職であった仙外耕雲和尚が、江戸時代の中頃、紅花資料館の西隣り高台に金谷庵を建立しました。金谷庵の名は付近の地名からつけられたようです。  定林寺は享保2年(1717)に沢畑杉山から谷地中楯に移築されましたが、金谷...

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 引竜湖を源にして流れる法師川に添って、岩木の道(県道285)を北上すると、家屋がまばらになった所に出、そこを右折し少し下ると、法師川に架かった岩砂橋に出ます。この一帯は河岸段丘特有の地形で、階段状の小高い丘が広がっています。前方にはこんも...

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 桜町通りの西端、寒河江街道と交叉するところに、地蔵堂と並んで金神様がある。  この付近は古来銅屋口と呼ばれ、中世代中條氏が鍛冶師や鋳物師(いもじ)達を住まわせた職人町の跡であるといわれる。  金神社は、もとは今より南方、渋川の...

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 「右公王んおん、左や満みち」と刻まれた弥勒寺の追分石を右に辿り、約700メートル進むと岩木観音堂の門前に着く。参道を上ると、うっそうと茂った木立の中にお堂が建っている。  この観音堂は、嘉慶元年(1387年)に岩木村の教円坊によっ...

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 桜町通りの西端、寒河江街道と交叉(さ)するところに、地蔵堂と並んで金神社があります。  この付近は古来銅屋口と呼ばれ、中世代中条氏が鍛冶師や鋳物師(いもじ)たちを住まわせた職人町の跡であると言われています。  金神社は、もとは今...

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 造山には、地名の語源となったと言われる牛山と虎山という二つの山がありました。  一つは明治の初め、寒河江谷地間を結ぶ道路工事のため崩されたが、もう一つは日塔久左衛門(当主は章彦氏)家の屋敷内に残っています。  直径10メートル...

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 南を寒河江川、東を最上川で区切られた本町の南東部一帯には古墳時代から奈良・平安時代頃に営まれた集落の跡が多く確認されています。その中で南に離れ寒河江川に近いところに位置するのが不動木遺跡です。県営ほ場整備事業にともなって、昭和六十年に県教...

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 青苧は江戸時代の庶民の衣料原料でした。土の肥えた畑を選び、八十八夜頃(五月一日、二日)に種を蒔き、お盆に刈りとり、糸にして売り出しました。奈良晒(さらし)・越後縮(ちぢみ)・近江蚊帳(かや)は特産物として全国に名高いが、その原料は最上の青...

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 谷地南部小学校のプールの西側に荒町北の稲荷神社があります。境内には四百年を超す松の樹があり、舟つなぎの松と呼ばれています。この松の北側には渋川があり、茨江(ばらえ)・鉾江・道海を通って、最上川に注いでいます。大洪水になれば、小舟などは渋川...

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 谷地から白岩への旧道は、出羽三山参詣のために関山峠を越えてくる人々や、村山方面からの三山道者たちの通路としても栄えた道でした。  西里の中島・治部橋を通り、天満地区が終るあたりの南側路傍に「一里塚」がひっそりとあります。かつては、...

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 弥勒寺公園野球場の南側に西国三十三観音の石仏があります。これらは嘉永元年(一八四八)谷地大町の和田孝四郎氏(八代幸右衛門氏)の発願により建立されたもので、もとは沢畑山の東斜面の補陀落山に西国三十三所、西側の仏生山に四国八十八所霊場を設けた...

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 溝延城は、大江家寒河江城の支城として一三五〇年代ころから築城され、一五八〇年代には廃城になった城で、南北朝時代から戦国時代の末期まで二三〇から四〇年の間存在しました。この間に現在の溝延地域が、ほとんど三重の堀で囲まれるという大きな平城(ひ...

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 伊藤馨の撰文並びに書になる小自在庵碑の碑文は、恭敬の念篤く、親しみの情がよく与された金石文です。  鳳山伊藤馨は酒田の人、儒学を江戸の浅川善庵に師事し、若くして三河国田原藩に儒をもって仕えた駿才です。  建碑は五鳳の友人門人...

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 市の立つ所には普通市神が祀られました。それらは無銘の自然石が多く、加工されたものや刻銘のあるものはほとんどありません。もともと市の立つ場所の目印として置かれたもので、それがいつしか市の繁栄を祈り、市神として祀られるようになりました。 ...

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 国道287号を要害から西里へ向かって間もなく、南側に少し入った水田の脇に遺跡を示す立て札があります。昭和五五年に県教育委員会が発掘調査を行った後、県営ほ場整備事業が実施され、現在のような美田となりました。  調査の結果、竪穴(たて...

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 松橋では現在県道天童・河北線の拡幅整備工事が進行中であり、江戸時代以来の西の玄関口の面影が変貌してきています。それに伴って、若宮八幡宮の標柱や鳥居も東に移動し、社殿に続く参道も直線から鍵形に変わりました。  その参道の西側には、稲...

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 町村合併当時、町内には県営渡船場が二カ所と町営渡船場四カ所、計六カ所の渡船場がありました。数えてみてください。  最後まで残っていたのが町営溝延渡船場でした。それでも昭和五十二年九月からは冬期運航を休みにし、同六十一年度には廃止に...

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 谷地八幡宮摂社若宮八幡神社は、幾度かの変遷を経て、明治七年六月十五日に現在の松橋の地に遷座されました。  祭神は大鷦鷯(おほさざきの)尊(みこと)(仁徳天皇)・誉田(ほむだ)別尊(わけのみこと)(応神天皇)・宇豆(うじの)若郎子(...

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 西里改善センターの近く、根際道と国道二八七号線の交差点を挟んで西北と西南方の田圃の中に、幅一メートルの笠をかぶり高さ一・二メートルほどの梵字を刻んだ万年堂、通称「御堂」(みどう)があります。石質は凝灰岩で、梵字は月山神を表す「キリク」=阿...

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 内楯とか中楯はかつて城の本丸があったことを示す地名ですが、その東北部(鬼門(きもん))を守るために祭られたのが三社宮とされています。  谷地城は中条氏によって弘治年間(一五五五~八)頃に築かれ、その後、白鳥十郎が引き継ぎ拡張整備を...

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 谷地の街の南端を東西に横切る国道287号からさらに三百メートルほど南に、月山堂とよばれる塚があります。その東側一帯では、耕作中に土器片が出土することが知られており、昭和三十年代に遺跡として登録されました。一帯に県営ほ場整備事業が実施される...

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 河北町には九基の市神が祭られており、その数の多さや市神が今日なお町民の生活に生きていることから「市神のひしめく町」として、全国に紹介されています。市神は本来、市が開かれる場所の目印として置かれた素朴な自然石でそのほとんどが無銘です。 ...

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 大町の葉山タクシーの車庫前西角にある、しめ縄が巻かれた自然石が大町中組の市神です。市神は元来市場の立つ場所の目印に建てられ、ほとんどが無銘の自然石です。  市場を立て、管理監督するのは、立前株を有する立前衆ですが、大町念仏講帳によ...

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 私たちの祖先は、稲作を始めると、それまでの山地・山麓での生活から一変して平野部に移ってきます。南を寒河江川、東を最上川で区切られた本町の南東部一帯には古墳時代から奈良・平安時代頃に営まれた集落の跡が多く確認されています。  熊野台遺...

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