江戸時代初期の最上紅花は質量ともに全国一を誇ったが、その集散の中心地は山形であった。紅花生産がはじまった極く初期には、生花生産農家が干花加工まで自分でおこなったであろうが、やがて生産が高まると「仕入宿」が生花を買い集めてそれを干花に加工するようになった。生花から干花をつくるには干場や収納庫の設備が必要で、資力のない農民や小商人が大量の干花を製造することは不可能であり、投資力のある山形の大商人が生花を仕入れて干花を作るようになったのである。

 生産者から買い集めた生花を仕入宿が買い取る場が「花市」で、山形の花市は寛永期(1624~1646)に整ったと思われる。「名物紅之袖」(山形市福寺蔵)という本には、享保頃(1716~1735)のようすを次のように書いている。

 「遠国とはいいながら、買人売人の有様丸はだか、肌着ばかり、或いは笠みのを着し物々しき出でたち、ただ狂人のごとく、与国より来り見物せしは、うたてき事なり」

 生花を買うために京都の紅問屋からわざわざ出向いて来たらしく、明和頃(1764~1771)にできた山形の案内記「風流松の木枕」には次のように書いてある。

 「紅花時分の最中は市場を立て、京都より紅花仲買の旅人下りて売買仕る。他国の衆はしらぬ。
 其時分は男も女も狂人のごとく姿を崩し、いつ櫛の歯入りたるままや、赤裸になり、何か一ヶ月の儲けが一年中の暮らしとなりぬこと故、前後を争ひ親兄弟の見境もあらばこそ、我劣らじと買ふことなり」

 山形の花市場の賑わいはすさまじいものであった。