最上紅花の評価 白鳥十郎の頃から植えはじめられた紅花は、江戸時代にはいると急速に量産され、「最上紅花」は質量共に高く評価されるようになった。当時今の村山地方を「もがみ」といい、新庄周辺を「村山」といったもので、内陸地方産の紅花を「最上紅花」と総称した。

 当時の最上紅花の評価を史料によって調べてみよう。正徳2年(1712)に刊行された「和漢三才図絵」では全国から産出する紅花について、「羽州最上及び山形之産を良と為し、伊勢・筑後之に次ぎ、予州今治・摂州二州之に次ぐ」として、最上紅花を最上位においている。それより少し前の元禄4年(1691)に出た「日本鹿子」では、有力産地として相模(神奈川)伊賀(三重)上総(長南-千葉)出羽・筑後(福岡)薩摩(鹿児島)をあげ、元禄10年(1697)版の「日本国花万葉記」でも同じように6つの国をあげている。

 時代は少しくだるが、天明4年(1784)に京都の呉服師山田屋・越後屋の紅染下職であった大森屋権兵衛から御役所へ出した「口上書覚」には、次のように書いてある。

「東国紅花奥州仙台・羽州山形其の外近江近国より造出候を、先ず東国紅花と唱え申候。(中略)東国紅花凡そ千弐参百駄、西国紅花凡五六百駄(後略)」

 全国の紅花を大きく東国花・西国花に区分し、その主な生産地をあげ、最後に東国・西国産の総生産額をあげている。

 また、文政10年(1827)に秋田出身の学者佐藤信淵はその著「経済要録」に「紅花を作ることは、羽州村山・最上の二群頗る其法を得て、極上品を出す。其他諸州に此れを作る者多しと雖も、上品あること鮮(すくな)し。凡そ紅花を作らんと欲せば、宜(よろし)く右二州の種子を得て蒔くべし」と書いている。村山・最上を紅花を極上品と評価し、その種子をまくことをすすめているのである。

 江戸の後期には最上紅花は奥州産に劣るようになるが、初期には全国最高の品質を保っていたのである。