紅花の美しさは貴族たちをとりこにしたが、生活に余裕のない庶民にとって、紅花はまだ手の届かぬところにあった。我が国の生活文化は室町時代以降(15~16世紀)に向上したといわれているが、紅花の需要もそれに応じて伸びたことであろう。

 さて、話を身近な所にもどすと、谷地城主白鳥十郎長久は、全国の情勢をかんがえて、天正5年(1577)に名馬白雲雀(ひばり)を織田信長に贈ったという。当時、馬を贈るということは臣従するという意思表示であり、信長はいたく喜んで、返礼として緞子(どんす)30局、縮羅30端、虎革3枚、豹革2枚、紅白の猩々皮とともに、紅50斤を贈った。その手紙は今も槙真司家にたいせつに保存されている。緞子というのはその頃中国から輸入されたしゅすの絹織物で、縮羅というのも高級織物で、その他虎革や猩々皮も、珍しい品物である。それらの中に紅花が入っているので、当時紅花はいかに貴重な物であったか、はかり知ることができる。

 信長から贈られた紅花の単位の「1斤」は160匁で、50斤は8貫目となる。これは干紅花であったと思われる。干し花8貫目といえば当時の生産量からして、5・6反歩からの生産量に当たり、相当の量である。ところで、紅花研究家の説によると、この附近ではその頃から紅花が作り始められたと言うことである。信長は遠く離れている出羽の国で紅花を栽培しているということは知る由もなく、十郎長久から名馬を贈られて、喜びの余りその返礼として、貴重品の紅花を多量に贈ってよこしたのであろうか。