最上紅花の品質は、最初のうちは全国最高であると各方面の評判が高かったが、需要の拡大にともない生産が増加するようになり、享保頃(1716~)からその品質はしだいに低下するようになった。そして元文3年(1738)には京都の紅問屋仲間から、「品質粗悪で歎かわしい次第である」という書状が、山形・谷地の荷主のもとに到着した。当地の関係者は書状の内容と問題点を検討し、改善策として次のような対策を立てた。

 その第1は花摘みを適期に行い、しかも10時頃迄にはつみ終わるように、ということである。これ迄は値段がよい時はむりに早摘みし、しかも昼過ぎ迄も摘むことがあった。そうした利益目あての摘み方が品質低下をもたらしたので、それを改めるということである。

 その第2は「着せ花」をしないことである。着せ花というのは、質の悪い花を良くみせるため、その上に上質の花をかぶせてごまかすことである。

 第3は「置き花」をしないことである。置き花というのは、雨降りの日に摘んだ濡れた生花を一晩囲っておいて、次の日に売り出すことである。そうすると花は腐ったようになって、品質が低下するのである。

 そのほか、花に雑物を混ぜないこと、花市場の取引を早くきりあげること、ということも打ち出した。

 荷主たちはこのような改善策をよく守るように、山形藩から各村々へ示達してくれるように藩へお願いした。紅花生産は藩にとっても重要なことであり、藩では早速その通りにお触れを出したが、もともと品質低下の原因は、生産者と集荷業者達の営利本位の行為であったわけで、お触れの効果を早急に期待することはできなかった。