最上紅花は有力な換金作物であり、その売上代金は生産者の家計をうるおし、その荷役銭(にやくせん)(出荷税)は幕府や藩の有力な財源となった。それでは、その値段はどれくらいであったろうか。

 京都の紅問屋との取引は「駄(だ)」単位でなされた。干花は重さ20匁の特製の紙袋に入れられ、皆掛け500匁のもの16袋(8貫目)包みを1梱(こん)といい、4梱32貫目を1駄といった。1駄とは馬1頭で運ぶ重さのことで、1駄の重さは品目によって多少違っていた。

 いうまでもなく、物の値段は需要と供給の関係で決まり、それに品質がからんでくる。江戸時代260年間には時代の変遷もあった。特に紅花は天候に左右されやすい植物で、年による豊凶・品質の格差が大きく、同じ年でも質の上・中・下で値段が違った。

 幸い、大町念仏講帳には毎年紅花その他穀物類の相場が詳しく書いてある。そのほか京都府立総合資料館には、文化8年(1811)から30年にわたる資料が残っており、紅花の値段をほぼ正確に知ることができる。

 地元谷地での最高は1駄につき安永6年(1777)の97両~105両で、最低は享和2年(1802)の24両~28両であった。最高と最低では約4倍のひらきがあるが、大半の年は30両から70両位の間を上下していた。それでも動きが大きいが、大まかにいって1駄45両位であったとみることができる。

 それにしても気がかりなことは、最上紅花は武蔵・下総・常陸・仙台産のそれに比べ、10両位安かったことである。はじめは品質最高といわれていたが、生産者の不心得により品質が次第に低下していったためである。