江戸時代にはいると紅花の需要は急速に高まり、生産は全国的にのびたが、中でも当地方の生産品は「最上紅花」と呼ばれ、質・量ともに全国一を誇っていた。それでは、この付近では1反歩(10アール)から、どれ位の紅花がとれたのであろうか。

 7月上旬から咲き始めた紅花をサンベや目早が農家から買い集め、仕入宿の出荷業者はそれから紅餅をつくって京都へ発送した。大蕨村(山辺町)の稲村家はこの地方きっての豪商で、山麓の高楯村の稲村喜七に生花の集荷や紅餅加工の一切を任せていた。寛政12年(1800)喜七が稲村家へ報告した書類によると、取り扱った生花の合計が約1,374貫目で、価格にすると約174両で、それからできた紅餅は約4駄(128貫目)であった。それに要した労力は延べ男60人、女40人ほどで、紅餅の乾燥と荷造りのために15日間使った筵は延2000枚以上で、自分の家はもちろん、隣近所の庭先や小屋も全部借用した。

 この場合、生花から紅餅生産の歩どまりは9分3厘で、生花の価格は1両につき約7貫900匁であった。

 紅花の生産高はその年の天候に大きく左右されるが、一般的に1反歩辺りの生花の生産高は30~40貫目で、紅餅にするとその歩どまりはよい場合は1割で、悪い場合は7分位であった。生花の生産30貫目で歩どまり7分とすると、1反歩からの紅餅の生産は2貫目100匁となり、生産40貫目で歩どまり1割とすると4貫目となる。平均して1反歩からの紅餅の生産は、3貫目位というのが普通であったようである。