天明8年(1788)幕府の巡見使に随行してきた地理学者の古川古松軒(こしょうけん)は、6月16日(太陽暦7月19日)上山から長谷堂村に出る途中、赤羽毛峠から村山盆地を見下ろした時の印象を、著書「東遊雑記」に次のように書いている。

 『この頂きより山形の郷中眼下に見ゆ。原野大いに開けおよそ十万石もあらんと覚しき所、畳を敷きたる如き田所(たどころ)なり。この節紅花盛りにて、満地朱をそそぎたる如く、うつくしきこと何にたとえん方(かた)なし。かようの土地は上方(かみがた)・中国・西国にいまだ見あたらず。誠に勝(すぐ)れたる風土(ふうど)なり。』

 巡見使というのは、幕府が必要に応じて諸国の実情を把握するため、全国を8区に分け3人1組にして派遣したもので、そのほかに多くの随行者があった。この巡見使一行が山形に来た時は紅花の最盛期で、満面と咲きほこった紅花を見て、古松軒は「他国にいまだ見当たらず」と書き記したのである。紅花は決して「朱」ではないが、一面に咲き揃った紅花は、古松軒に強い印象を与えたのであろう。

 最上紅花の主産地は最上川沿いの肥沃な平地で、南は上山(かみのやま)を限界とし、その北は山形-天童-谷地と続き、西は寒河江(さがえ)、北は東根附近が限界であった。紅花には鋭いトゲがあり、花をつむには朝霧があるうちでないといけないので、朝霧の立ちやすい最上川沿岸が、紅花の生産に適していたのであろうか。

 巡見使一行は山形・天童を通り、6月19日には谷地に来て、大町の田宮五郎右衛門・柴田弥右衛門、工藤小路の和田太兵衛の三軒に分宿している。